7月2日(月)30日め 奇跡の一本松で奇跡の遭遇!?

今日は陸前高田の奇跡の一本松に立ち寄ったあと北上して宮古まで行く予定。

高校時代からの友だちから、7/2に昔の仕事仲間とツアーで一本松に行く、という連絡が入っていたので、うまくタイミング合えば会えるかも、と考えていた。

朝食中、一本松での滞在時間は9:30から1時間弱、という連絡が入った。おお、素晴らしい。宿から一本松までは30分ほど。こちらも9:30ごろ到着できる。

一本松の付近はどこもかしこも工事中だが、一般車が停められる駐車場が一カ所だけある。友だちの観光バスも同じ駐車場のはずだ。

駐車場の入り口近くは渋滞だった。ノロノロと運転しながら、駐車場の中を探す。観光バスが1台停まっている。旗を持った添乗員に先導されて団体さんご一行がゾロゾロと歩いてくる。あの中にいるかも、と目を凝らすと、サングラスをかけたそれらしき女性が。手を振ると向こうも気づいた。車道と歩道を隔てるガードレールの向こうから手を振っている。添乗員はおかまいなくドンドン歩く。団体さんご一行はあっというまに通り過ぎて行った。

ということで5秒間の奇跡?のニアミスが実現。相棒を駐車場に停め、7~8分遅れて友だち一行を追いかける。

駐車場から一本松までの道のりは長い。しかも炎天下だ。

駐車場の向かいではダンプがひっきりなしに砂利を運ぶ。

中古車展示場の前を通り、

中古重機展示場の前を過ぎ、

レンタル重機展示場を横目で見て、

気仙大橋(工事中)の下をくぐると、

彼方にやっと一本松が見えてくる。

仮設トイレの脇を過ぎ、

黄色い網の向こうの一本松を横目で見ながら、

工事中の橋脚の脇を曲がり、

ひたすら歩き続けると、、、、、、

一本松と友だちが待っていた。

めでたしめでたし!ということで、仲間のみなさんと一緒に記念撮影。1本+7人+1人のナインショットがこれ ↓  暗くて顔がわからないが、これはこれで

お仲間のみなさま、写真の掲載許可ありがとうございます。

駐車場へ戻ったら友だちがソフトクリームを差し入れてくれた。お仲間の女性も加えて3人で5分ほど歓談。あっと言う間にバスの出発時間となり、奇跡?の遭遇タイムは幕を閉じた。

【編集後記】

なにが奇跡かと言えば、彼女や私が属する会が高校卒業後50年間もずっと続いてきたこと、それ自体だろう。JRC(Junior Red Cross 青少年赤十字)川越支部に属する7校(当時)の同じ年度の卒業生の集まりだ。卒業時に会を発足させ、毎年1回、会を開き続けてきた。メンバーの一人が欠かさず開催通知を送り続けてくれたのだ。欠席が続くメンバーも含めて常に全員に。

会を作ったこと、会が続いていること、みんな仲がいいこと、会えば高校時代と同じ気持ちになること。このこと自体が奇跡なのだ、と私は思う。

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奇跡とはごくわずかな確率で起きるできごとを言うのではない。
わずかな想いとわずかな努力を積み重ねて生まれる当たり前のできごとを言うのだ。
あまりにも当たり前すぎて気づかない、そんなできごとを本当の奇跡と言うのだ。
~『風走記』より~
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陸前高田の一本松も人々の想いと努力の積み重ねによって生まれた奇跡なのだ。

7月1日(日)29日め 平泉散策(その3):素晴らしきマイナーエリア(中編)冷たい水羊羹と柳之御所

無量光院跡後ろの高台から降りたところのお屋敷で草取り中の女性がいる。暑いですね、と声を掛け、しばらく立ち話。

すると、中へ入って休んでいかない? とのお誘い。女性からのお誘いは常に快諾。お言葉に甘えてお屋敷の中へ。

植え込みがよく手入れされているなあ、と思ったら、旦那さまがまさに手入れの最中だった。

品評会に出せそうな錦鯉がたくさん。

冷たい麦茶と水羊羹をいただきながら世間話。お二人とも中学校の教員だったとのこと。旦那さまは社会科、84歳、奥さまは英語、72歳。退職してから48カ国に旅行したそうだ。娘二人は嫁いで、お二人だけの悠々自適生活。東北のおススメスポットをいろいろ教えていただいた。

例によって記念撮影。バックに写るのは築62年の家だそうだが、よく手入れされていて、そうは見えない。お二人ともまめなのだろう。

水羊羹、ごちそうさまでした。冷たくて美味しかったです。

そこから5分ほどのところにある、柳之御所遺跡に着く。藤原氏の政治の中心だった場所ということなので、どんなロケーションなのか興味があった。

小高い丘になっていて周囲がよく見渡せる。高すぎないのでアクセスがよく、権威を示す効果もある高さだ。

発掘調査に基づいて建物の位置が示されている。上の写真の2つの黒いエリア(奥と手前)に中心建物があったらしい。

金鶏山(手前の山)を望むエリアには園地(池)がある。

金鶏山に沈む夕日を見たかったのだが、次の目的地が少し遠いので先を急ぐことにした。

(後編に続く)

6月24日(日)22日め 相馬から仙台へ:柱だけが残った家のご主人にお話を伺う

昨日のできごとで疲れたので、今日はのんびり行くことにする。

相馬の宿を出て松川浦に向かう。松川浦は相馬市の東に位置する潟湖(せきこ)だ。湾が砂州で海から隔てられたもので、海のすぐ内側に湖がある。砂州の上に道路があるので、そこを走れば海と湖を同時に見られるだろう。

田んぼの中をのんびりトコトコ走る。

こういうごく普通の平凡な田舎の風景が好きだ。

久しぶりに専属カメラマンに撮ってもらった。アングルや構図は平凡だが、シャッターのタイミングだけは抜群だ。もっとも何十枚も撮るので、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる(笑)

シラサギがあちこちにいる。10羽ぐらい見かけたうちの一番近かったやつ。

松川浦に近づくと、木の囲いがあちこちに見える。震災で流されてしまった防風林にする松の苗木を育てているのだそうだ。中を覗いてみた。

あちこちで囲いを作る工事をしている。日曜日で機械は動いていなかったが。

松川浦と海との間の道路を走る。

松川浦をバックに記念撮影。少し引き返したのでバイクの向きは反対です。細部にこだわる人に向けて念のため。

道路から望む松川浦の風景。

鵜ノ尾崎灯台が見えてきた。バイクが多い。爽快な道なので気持ちはよくわかる!

灯台手前の駐車場に入ると面白そうな人たちが話をしていた。

これは若いほうの人の。バギーを改造したとのこと。

こっちはオジサンのほうの。アメリカの警官が実際に使っていたものだと言っていたが真偽は不明。

スピーカーが付いているので、このマイクでしゃべるとあたり一帯に声が響き渡る。オイオイ、実際にやらなくてもいいよ!と制止(笑) ライトのスイッチだのいろいろ付いている。ハーレー乗りによくあるタイプなのだが、カワサキでは珍しい。

せっかく出会ったので、例によって記念撮影。3×3のスリーショットだ。

丘に登り、灯台を目指す。林&草むらを進むと灯台が顔を出した。こういう風景も大好きだ。

灯台の下にあった説明の一部。ざっくりした位置がわかる、、、 まあ、この程度でいいのは確か。

灯台から慰霊碑に向かう。立ち枯れた木の形が面白い。

海洋調査船遭難の慰霊碑だった。9名全員が38歳以下。海の男たちが今も見守っていてくれる、そんな気持ちになる。

鵜ノ尾埼灯台をあとにしてしばらく走ると松川浦漁港に出る。

みな新しい船ばかりだ。震災ですべて流されてしまったのだろう。

新しい橋。

新しい建物。

新しい建物の横で、子供たちとお爺さんが釣りをしていた。初めて来たんで何が釣れるかはわかんねぇ、とのこと。のんびりしていて、いい感じ。

漁港の外では道路や橋や堤防の工事が続いている。

ちょっと絵になる風景も。

作られたわざとらしさがない、こんな風景が大好きだ。もしかすると、おれの日本一周の旅はこんな風景を探す旅なのかもしれないな、と、ふと思った。

松川浦をあとにして仙台に向かうと、またこんな標識が。

反対側の標識はこうだ。

私の後ろ側(バイクが向いている方向)が少し高台になっているので、津波がここで止まったということなのだろう。

さらに北上したところにあった八重垣神社。鎮守の森を復活する植樹をしたことが書かれている。鎮守の森が流されてしまったということか。

神社の隣の震災被害者の供養塔。流された墓石が集められている。

さらにしばらく走るとこんな光景が目に飛び込んできた。

人影が見えたので、家屋に向かう。

家の人がいらっしゃったので挨拶して撮影の許可をいただく。

震災当時の状況をお伺いした。

地震が来たときは少し離れたところに出かけていてね。10分後には津波が来る!と思ったので、学校に子供たちを迎えにいくか、この家にいる両親のほうへ行くか迷ったんだが。子供たちは学校に任せて両親のほうへ行くことにした。結果的には家族全員助かったんだが、、、

あの当時は、会社を辞めて無農薬イチゴの栽培を始めて3年めでね。そこの家の前の畑で作ってた。3年かけてやっと完全に無農薬で作れるようになった矢先だった。

畑はもちろん全部流されて、家もこの状態。落ち込むというより、これから家族をどうするんだ、何とかしなきゃ、という気持ちだけだったね。

家は今も震災直後の状態だ。90歳になるオヤジが家を直すっていうもんだからさ、壊さずにおいてあるんだ。

今は少し離れた町に住んでる。家を直してもここに戻るのは難しいなあ。この家と道の間に家が3軒あったんだが、全部流された。道の向こう側にも家が並んでいたんだが、全部流された。もう戻ってこないだろうな。だからこの辺りは夜になるとすごく寂しい状態だ。だから住むのは難しいと思うよ。

それに子供たちは今の学校で友達ができているからなあ。今さら転校なんてなあ。戻ってもいじめられるってこともあるようだし。

おれは今は勤めていて、この畑はオヤジがやっているから手伝ってる。

言葉が出てこない。ご家族がご無事でよかったですね、というのが精いっぱいだ。

ブログをやっていることをお話して写真を撮らせていただいた。掲載許可もいただいた。一緒に記念写真というのは失礼なので、お一人と一軒だけで撮影。

いろいろお話いただいて、ありがとうございました。お父さんにもよろしくお伝えください。

この辺りには非難用の小高い丘が作られている。みな高さ9~10mぐらいだ。この辺りでは、震災のときにそのくらいの高さの丘に逃げた人たちは助かったのだそうだ。

千年希望の丘という相野釜公園に着く。

津波に流されなかった松が海岸のほうに見える。

下は公園にあった看板の一部。左上に写っているのが今も残っている松だろう。

さらに北上し、阿武隈川の河口に出る。視界が開けていい景色だ。

もう仙台までわずかだ。

【編集後記】

私にはお父さんの、家を直したい、という気持ちがとてもよくわかる。息子が建てた立派な家だ。太い柱がたくさん使われていて、しっかり丈夫に作られている。玄関を入ったところに一番太い柱がある。太さはおそらく25cmぐらい。奥の、いわゆる大黒柱の太さは2番目なのだ。おそらく20cmぐらい。そのほかの柱もみな15cmぐらいはある。

きっとお父さんにとっては自慢の息子なのだろう。津波にも流されなかったりっぱな家を建てたのだから。

お父さんの気持ちになると涙が出てくる。

たとえ直さなくても、お父さんがご存命の間は家を壊さないでほしい、そんな気持ちで一杯だ。

お名前を伺ったら快く教えていただき、ブログに書く許可もいただいたのだが。ご家族や子供たちに何か影響があるかもしれないのでやめておきます。このあたりの微妙な境界線が私にとってはとても難しい、と感じた今でした。