昨日のできごとで疲れたので、今日はのんびり行くことにする。
相馬の宿を出て松川浦に向かう。松川浦は相馬市の東に位置する潟湖(せきこ)だ。湾が砂州で海から隔てられたもので、海のすぐ内側に湖がある。砂州の上に道路があるので、そこを走れば海と湖を同時に見られるだろう。
田んぼの中をのんびりトコトコ走る。
こういうごく普通の平凡な田舎の風景が好きだ。
久しぶりに専属カメラマンに撮ってもらった。アングルや構図は平凡だが、シャッターのタイミングだけは抜群だ。もっとも何十枚も撮るので、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる(笑)
シラサギがあちこちにいる。10羽ぐらい見かけたうちの一番近かったやつ。
松川浦に近づくと、木の囲いがあちこちに見える。震災で流されてしまった防風林にする松の苗木を育てているのだそうだ。中を覗いてみた。
あちこちで囲いを作る工事をしている。日曜日で機械は動いていなかったが。
松川浦と海との間の道路を走る。
松川浦をバックに記念撮影。少し引き返したのでバイクの向きは反対です。細部にこだわる人に向けて念のため。
道路から望む松川浦の風景。
鵜ノ尾崎灯台が見えてきた。バイクが多い。爽快な道なので気持ちはよくわかる!
灯台手前の駐車場に入ると面白そうな人たちが話をしていた。
これは若いほうの人の。バギーを改造したとのこと。
こっちはオジサンのほうの。アメリカの警官が実際に使っていたものだと言っていたが真偽は不明。
スピーカーが付いているので、このマイクでしゃべるとあたり一帯に声が響き渡る。オイオイ、実際にやらなくてもいいよ!と制止(笑) ライトのスイッチだのいろいろ付いている。ハーレー乗りによくあるタイプなのだが、カワサキでは珍しい。
せっかく出会ったので、例によって記念撮影。3×3のスリーショットだ。
丘に登り、灯台を目指す。林&草むらを進むと灯台が顔を出した。こういう風景も大好きだ。
灯台の下にあった説明の一部。ざっくりした位置がわかる、、、 まあ、この程度でいいのは確か。
灯台から慰霊碑に向かう。立ち枯れた木の形が面白い。
海洋調査船遭難の慰霊碑だった。9名全員が38歳以下。海の男たちが今も見守っていてくれる、そんな気持ちになる。
鵜ノ尾埼灯台をあとにしてしばらく走ると松川浦漁港に出る。
みな新しい船ばかりだ。震災ですべて流されてしまったのだろう。
新しい橋。
新しい建物。
新しい建物の横で、子供たちとお爺さんが釣りをしていた。初めて来たんで何が釣れるかはわかんねぇ、とのこと。のんびりしていて、いい感じ。
漁港の外では道路や橋や堤防の工事が続いている。
ちょっと絵になる風景も。
作られたわざとらしさがない、こんな風景が大好きだ。もしかすると、おれの日本一周の旅はこんな風景を探す旅なのかもしれないな、と、ふと思った。
松川浦をあとにして仙台に向かうと、またこんな標識が。
反対側の標識はこうだ。
私の後ろ側(バイクが向いている方向)が少し高台になっているので、津波がここで止まったということなのだろう。
さらに北上したところにあった八重垣神社。鎮守の森を復活する植樹をしたことが書かれている。鎮守の森が流されてしまったということか。
神社の隣の震災被害者の供養塔。流された墓石が集められている。
さらにしばらく走るとこんな光景が目に飛び込んできた。
人影が見えたので、家屋に向かう。
家の人がいらっしゃったので挨拶して撮影の許可をいただく。
震災当時の状況をお伺いした。
地震が来たときは少し離れたところに出かけていてね。10分後には津波が来る!と思ったので、学校に子供たちを迎えにいくか、この家にいる両親のほうへ行くか迷ったんだが。子供たちは学校に任せて両親のほうへ行くことにした。結果的には家族全員助かったんだが、、、
あの当時は、会社を辞めて無農薬イチゴの栽培を始めて3年めでね。そこの家の前の畑で作ってた。3年かけてやっと完全に無農薬で作れるようになった矢先だった。
畑はもちろん全部流されて、家もこの状態。落ち込むというより、これから家族をどうするんだ、何とかしなきゃ、という気持ちだけだったね。
家は今も震災直後の状態だ。90歳になるオヤジが家を直すっていうもんだからさ、壊さずにおいてあるんだ。
今は少し離れた町に住んでる。家を直してもここに戻るのは難しいなあ。この家と道の間に家が3軒あったんだが、全部流された。道の向こう側にも家が並んでいたんだが、全部流された。もう戻ってこないだろうな。だからこの辺りは夜になるとすごく寂しい状態だ。だから住むのは難しいと思うよ。
それに子供たちは今の学校で友達ができているからなあ。今さら転校なんてなあ。戻ってもいじめられるってこともあるようだし。
おれは今は勤めていて、この畑はオヤジがやっているから手伝ってる。
言葉が出てこない。ご家族がご無事でよかったですね、というのが精いっぱいだ。
ブログをやっていることをお話して写真を撮らせていただいた。掲載許可もいただいた。一緒に記念写真というのは失礼なので、お一人と一軒だけで撮影。
いろいろお話いただいて、ありがとうございました。お父さんにもよろしくお伝えください。
この辺りには非難用の小高い丘が作られている。みな高さ9~10mぐらいだ。この辺りでは、震災のときにそのくらいの高さの丘に逃げた人たちは助かったのだそうだ。
千年希望の丘という相野釜公園に着く。
津波に流されなかった松が海岸のほうに見える。
下は公園にあった看板の一部。左上に写っているのが今も残っている松だろう。
さらに北上し、阿武隈川の河口に出る。視界が開けていい景色だ。
もう仙台までわずかだ。
【編集後記】
私にはお父さんの、家を直したい、という気持ちがとてもよくわかる。息子が建てた立派な家だ。太い柱がたくさん使われていて、しっかり丈夫に作られている。玄関を入ったところに一番太い柱がある。太さはおそらく25cmぐらい。奥の、いわゆる大黒柱の太さは2番目なのだ。おそらく20cmぐらい。そのほかの柱もみな15cmぐらいはある。
きっとお父さんにとっては自慢の息子なのだろう。津波にも流されなかったりっぱな家を建てたのだから。
お父さんの気持ちになると涙が出てくる。
たとえ直さなくても、お父さんがご存命の間は家を壊さないでほしい、そんな気持ちで一杯だ。
お名前を伺ったら快く教えていただき、ブログに書く許可もいただいたのだが。ご家族や子供たちに何か影響があるかもしれないのでやめておきます。このあたりの微妙な境界線が私にとってはとても難しい、と感じた今でした。